海老蔵報道と国民国家
海老蔵報道、こんなことについて書きたくないのだが、今の日本を象徴しているので書き連ねてみる。
たぶん、「海老蔵が暴力…」といったことがテレビを中心としたマスコミに毎日、かつ長期間にわたって取り上げられるような状況というのは、日本だけだろう。フランスなどでは、きっと1度だけ芸能ネタとして扱われ、それで終わっているはずだ。
こうした違いは、民度が低い云々ということもあるだろうが、むしろ意識のあり方の問題だと考えられる。つまり、日本という国は、いろいろな社会現象に対して、国民全体が共通のプラットフォームを持ちたい、あるいは持つべきだという意識が自動的に働いている。
これは何も芸能ネタだけのことではなく、上は政治のことにも及んでいる。その意味では、海老蔵も菅総理も同レベルで語られていて、ほとんど区別はない。
たとえば犯罪報道では、とにかく犯人は「市民の敵」あるいは「異常者」「悪者」として決め付けて報道される。時に間違うことがあるが、そのときは「反省」すればいいだけで、「敵」と決め付けられた人の人権も何もなく、言い訳は「世間みんながそう思ったから」となる。
かようにして、太平洋戦争もそうだった。猪瀬直樹の『昭和16年の敗戦』を読んだが、負けることが分かっていても、それこそ全員が「空気を読んで」、粛々と戦争に向かったことがわかる。だからといって、当時の戦争に反対したから正しいということではない。その意味で、吉本の言う「転向論」は正しい。
こうした意識は現在でも全く変わらない。このことについて内田樹は「日本は国民国家である」としている。西洋は階級社会であり、横割りの社会になっていて、層によって意識も違い、その多様性によって成り立っているというのだ。ところが日本はすべて均質で、経済的な格差があろうと、まだ全員が同じ場所にいるという認識、つまり「国民」である。
「国民」である以上は、ほぼ同じ意識の上に成り立たないといけない。したがって、政治のことから芸能のことまであらゆるシーンで、老若男女すべてが白あるいは黒でないといけないのだ。そこからはみ出すと、村八分あるいは放逐されてしまう。その反動として、引きこもりか、悪い意味での「オタク」で生きることになる。
海老蔵報道も、以前と違ってみんなのコンセンサスを得るのは難しくなっているが、だからこそ余計に同じネタを流すことで同意を形成する方法を取っている。
さて、「国民国家」だが、アジアはどちらかというとそういう地域である。これは農耕を中心にしているということもあるだろう。集団労働で社会を支えることは、自ずから同一性が求められる。そうでないと社会が成立しないからだ。第一次産業、第二次産業の段階までは共同作業が多く派生する分、同じ釜の飯を食うことが前提となるからだ。
では、「国民国家」は悪いことなのだろうか。この点は非常に難しい。たとえば、「福祉は北欧」などと言われるが、そのシステムを日本に移植してうまく行くことは決してない。なぜなら、社会の構造やそこで生きている人の意識が違うからだ。
ならば、「国民国家」のままでいい社会をつくることをめざすしかないのかもしれない、少なくともあと百年ぐらいは。かといって悲観するのではなく、日本らしさをもういちど採掘して、グローバリゼーションの中でも対応できる方法をとる。
たとえば、イギリスの大学は古くからグローバリゼーションであった。自国の学生だけではなく、広く世界から学生を受け入れ、その総体として自国を経営してきた。一国にこだわることなく、知識を世界から集めることについて、別段引け目もない。結果的に植民地ではその文化が生き、支配層の人材も育成された。
余談だが、日本も明治の後期あたりからは中国やアジアから留学生を受け入れつつ、亜細亜をスキルアップしようとしてきた。その裏にある亜細亜支配という野望が分かった段階で、留学生は大幅に減った。その結果、より一国化に走ることになった。
「日本らしさ」など、すでに過去の遺物かもしれないが、そこにしか日本が永続できる道はないのではないか。まだいまのところ、西洋があこがれる日本の姿があり、アジアもアニメなどのサブカルで日本にあこがれている事実もある。
古くは、浮世絵や陶器が西洋の文化に多大な影響を与えたように、とにかく日本にまだ残っている絶滅危惧種的な精神性を掘り起こし、そこから立て直すしかないような気がしている。
いかがでしょうか。
写真は萩焼のぐい飲み。兼田昌尚氏の作品です。大きめなのと、白い釉薬が赤ワインに合うのではないかとおもって購入。形の斬新さはまさに鬼萩です。実は少し難点があり、それは飲み口がうまく見つからないことです。
彼の作品は西洋人に人気があるらしい。それもなんとなく判る気がします。西洋の単純なシンメトリー感覚を見事に打ち破り、かつ下品ではないところがいいのでしょう。織部も含めて、これも日本人らしさの一つであることはまちがいない。
たぶん、「海老蔵が暴力…」といったことがテレビを中心としたマスコミに毎日、かつ長期間にわたって取り上げられるような状況というのは、日本だけだろう。フランスなどでは、きっと1度だけ芸能ネタとして扱われ、それで終わっているはずだ。
こうした違いは、民度が低い云々ということもあるだろうが、むしろ意識のあり方の問題だと考えられる。つまり、日本という国は、いろいろな社会現象に対して、国民全体が共通のプラットフォームを持ちたい、あるいは持つべきだという意識が自動的に働いている。
これは何も芸能ネタだけのことではなく、上は政治のことにも及んでいる。その意味では、海老蔵も菅総理も同レベルで語られていて、ほとんど区別はない。
たとえば犯罪報道では、とにかく犯人は「市民の敵」あるいは「異常者」「悪者」として決め付けて報道される。時に間違うことがあるが、そのときは「反省」すればいいだけで、「敵」と決め付けられた人の人権も何もなく、言い訳は「世間みんながそう思ったから」となる。
かようにして、太平洋戦争もそうだった。猪瀬直樹の『昭和16年の敗戦』を読んだが、負けることが分かっていても、それこそ全員が「空気を読んで」、粛々と戦争に向かったことがわかる。だからといって、当時の戦争に反対したから正しいということではない。その意味で、吉本の言う「転向論」は正しい。
こうした意識は現在でも全く変わらない。このことについて内田樹は「日本は国民国家である」としている。西洋は階級社会であり、横割りの社会になっていて、層によって意識も違い、その多様性によって成り立っているというのだ。ところが日本はすべて均質で、経済的な格差があろうと、まだ全員が同じ場所にいるという認識、つまり「国民」である。
「国民」である以上は、ほぼ同じ意識の上に成り立たないといけない。したがって、政治のことから芸能のことまであらゆるシーンで、老若男女すべてが白あるいは黒でないといけないのだ。そこからはみ出すと、村八分あるいは放逐されてしまう。その反動として、引きこもりか、悪い意味での「オタク」で生きることになる。
海老蔵報道も、以前と違ってみんなのコンセンサスを得るのは難しくなっているが、だからこそ余計に同じネタを流すことで同意を形成する方法を取っている。
さて、「国民国家」だが、アジアはどちらかというとそういう地域である。これは農耕を中心にしているということもあるだろう。集団労働で社会を支えることは、自ずから同一性が求められる。そうでないと社会が成立しないからだ。第一次産業、第二次産業の段階までは共同作業が多く派生する分、同じ釜の飯を食うことが前提となるからだ。
では、「国民国家」は悪いことなのだろうか。この点は非常に難しい。たとえば、「福祉は北欧」などと言われるが、そのシステムを日本に移植してうまく行くことは決してない。なぜなら、社会の構造やそこで生きている人の意識が違うからだ。
ならば、「国民国家」のままでいい社会をつくることをめざすしかないのかもしれない、少なくともあと百年ぐらいは。かといって悲観するのではなく、日本らしさをもういちど採掘して、グローバリゼーションの中でも対応できる方法をとる。
たとえば、イギリスの大学は古くからグローバリゼーションであった。自国の学生だけではなく、広く世界から学生を受け入れ、その総体として自国を経営してきた。一国にこだわることなく、知識を世界から集めることについて、別段引け目もない。結果的に植民地ではその文化が生き、支配層の人材も育成された。
余談だが、日本も明治の後期あたりからは中国やアジアから留学生を受け入れつつ、亜細亜をスキルアップしようとしてきた。その裏にある亜細亜支配という野望が分かった段階で、留学生は大幅に減った。その結果、より一国化に走ることになった。
「日本らしさ」など、すでに過去の遺物かもしれないが、そこにしか日本が永続できる道はないのではないか。まだいまのところ、西洋があこがれる日本の姿があり、アジアもアニメなどのサブカルで日本にあこがれている事実もある。
古くは、浮世絵や陶器が西洋の文化に多大な影響を与えたように、とにかく日本にまだ残っている絶滅危惧種的な精神性を掘り起こし、そこから立て直すしかないような気がしている。
いかがでしょうか。
写真は萩焼のぐい飲み。兼田昌尚氏の作品です。大きめなのと、白い釉薬が赤ワインに合うのではないかとおもって購入。形の斬新さはまさに鬼萩です。実は少し難点があり、それは飲み口がうまく見つからないことです。
彼の作品は西洋人に人気があるらしい。それもなんとなく判る気がします。西洋の単純なシンメトリー感覚を見事に打ち破り、かつ下品ではないところがいいのでしょう。織部も含めて、これも日本人らしさの一つであることはまちがいない。
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